atWakayama
和歌山の街に、5台の丸編み機が静かに持ち込まれました。 後に「ニットの聖地」と呼ばれるようになった、和歌山ニット始まりの時。 やがて糸を撚る工場の音が幾重にも重なり、 和歌山はニット産業の隆盛を極めることになります。 ―100年以上途切れることなく続く「糸の物語」。
1909
ニットの聖地-その素地。
和歌山は、古くから繊維産業の拠点として発展してきました。
その発展の歴史は江戸時代にまでさかのぼります。
紀州藩は経済振興策として「足袋(たび)」の生産を奨励しました。
この足袋に使われていた生地は「紋羽織(もんぱおり)」と呼ばれ、防寒に優れており、足袋の他にも襦袢・股引・頭巾など多様な衣類に用いられてきました。
この頃からすでに和歌山にはニットの聖地に繋がっていく素地があったのです。
明治に入ってからは、この紋羽織の技術を改良し「綿ネル」が生み出されました。綿織物に起毛加工を施したこの綿ネルは、軽く保湿性に優れており、当時の軍服や肌着、靴など様々な用途に用いられました。
和歌山で生産された綿ネルは「紀州ネル」とも呼ばれ、当時の和歌山の代表的産業にまで成長していきます。
紋羽織や綿ネルは時代とともにその姿を消していく事になりますが、今日の和歌山ニットにもその技術の一部は受け継がれており、和歌山の繊維産業の礎を築いた存在であると言っても過言ではありません。

たった5台の丸編み機から世界有数の集積地へ。
1909年。
和歌山ニット始まりの時が訪れます。
この年、県内の先進的な事業者がスイス製の丸編み機を5台導入しました。この出来事が今日の「和歌山ニット」の直接のルーツと言われています。
この編み機が製造するのは「メリヤス(莫大小)」という、伸縮性に優れた新しい生地でした。肌触りが良く、通気性や吸湿性に優れており、丈夫でしわになりにくいといった多くのメリットを持っていました。
このメリヤスは、今ではTシャツなどの生地としておなじみですが、当時としては画期的な素材であり、瞬く間に市場に広がっていきました。
メリヤス生地はこの丸編み機導入以前より存在していましたが、それまでは手編みや簡易な機械を使って手工業的に製造されていました。しかし、1909年を境に従来の手工業的な製法から、より精密で効率的なニット製品の生産が可能となり、和歌山は全国でも有数のメリヤス産地へと成長していきます。
大正時代には、戦時特需を契機に和歌山ニットは飛躍的な発展を遂げます。県内の業者数は約80、設備機械台数は約4,000台を数え、たった5台の丸編み機は800倍の規模にまで拡大していました。和歌山は、全国一の丸編みメリヤス産地の座を確立するに至ったのです。
第二次世界大戦では空襲により国内の多くの工場が被害を受けましたが、和歌山においてはその被害が軽微でした。このため戦禍を経てもなお、和歌山はニット産地としての地位を保ち続け、やがては世界有数の集積地に数えられるまでになります。
今日においては、世界的なハイブランド製品の製造を行うなど、和歌山ニットはまさに「聖地」と呼ばれる発展を遂げているのです。
